親方さんですか、職人さんですか?
修行中、窯場の老職人に
昔の職人の「仁義」を教わったことがある。
その方は若い頃、瓦職人だった時もあり、
この話は主として瓦業界の話であるが、
戦前の職人世界ではどこでも、だいたい同じ様子だったらしい。
昔は流れ職人が、たくさんいたものである。
もちろん、流れ職人になったりせず
ひとつの窯元で、ひたすら修行して一人前になり
その窯元で、職人として一生を過ごす人が大多数であった。
意欲的な向上心から、腕を磨く為に平穏な生活を捨てて
全国を放浪する若い流れ職人も、少なからず、いた。
それを「武者修行」と言ったものだ。
昔は、全ての職人仕事は出来高払いだったから
腕を上げれば上げるほど稼ぐことが出来たのである。
だから、腕を上げるために、あらゆる努力をしたものだ。
今は、出来高払いは社長だけで、職人は時間給である。
もちろん、時間給の良い点もある。
出来高払いは、ある意味、残酷なものである。
腕の悪い職人はみじめなものであった。
出来高払いから時間給になったのは
永年の労働運動の成果であり、労働者の生活が保障されたのであるが
一面、職人の向上心に水を差していることは否めない。
それはともかく、、、
、、、
中には、
一生、気楽な流れ者で暮らす(寅さんのような)流れ専門の職人もいて
そういう手合いを、蔑視と愛惜と憧憬を込めて、「窯ぐれ」と言う。
窯ぐれは、皆、いい腕をしていた。
そりゃそうでしょう。
どこへ行っても、即戦力になれる程の腕前がなければ、窯ぐれは出来ない。
高い技術を持ち、どこでも重宝がられながら、何故か、不思議なことに
ひとつところに留まる事ができない、そんな奴がたくさんいたそうだ。
かっこいいではないか。うらやましいような気もする。
だから「窯ぐれ」という言葉には、羨望の意味もこ込められている。
、、、
実際問題としては、
勤め先が倒産したり、親方とけんかして、女で失敗して、とかの理由で
やむを得ず流れ職人になった人も、多かっただろうと思われる。
、、、
知らない土地へ来た流れ職人は、
窯場を見つけたなら、そこで働いている人に、まず
「親方さんですか、職人さんですか?」と聞く。
その人がたとえ親方でなくても、
「親方さんですか?」と、聞かれて悪い思いをするはずがない。
よしんば職人ですらなく、ただの「見習い」であったとしても
「職人さんですか?」と、聞かれて悪い思いをするはずがない。
つまり、もっとも無難な挨拶というわけだ。
その人が親方でなかったら親方を紹介してもらって、
或いはもしその人が親方だったなら、そこですぐに、
「仁義」を切るのである。
仁義とは、自己紹介である。
老職人は、仁義の「さわり」の部分を少し歌ってくれた。
その声音は美しく、流れるように、なめらかなもので、
東映映画の侠客の剛直な仁義とは、全く違うものであった。
私は、カセットにでも録音して永久保存したい気持ちになったが
まさかペーペーの見習いである私が「その仁義を録音させてください」
なんて言うわけにもいかなかった。(今にして思えば、とても残念、、、)
仁義において、何より大切なのは
「自分が何をどの程度できるのか」それを自己紹介する事である。
つまり、いきなりの面接試験、履歴書の披露なんですね。
いきなりの面接試験、それでいいのだ。
日本の職人世界では、流れ職人がやって来た場合
すぐに追い返すような事は、けっして無かった。
その人が出来そうな仕事が少しでもあれば、
必ず仕事をさせたものだった。
もし、不景気で、やってもらう仕事が全然なかった場合には、
それでも一晩は必ず泊めてやり、ささやかな「ごちそう」までしたそうだ。
そして翌日には、近くの窯場を紹介してあげたらしい。
近くに窯場が無い場合は、そこまでの汽車賃と
ちょっとした小遣いまで与えてやったそうである。
これが「一宿一飯の恩義」なのである。
「一宿一飯の恩義」を受けた職人は一生それを忘れる事は無かった。
もしその窯場が人手不足で困っているような噂でも聞いたなら、
それこそ「押っ取り刀」で駆けつけるものだった。
このようにして業界全体として、職人の生活を保障したのだ。
だから、若い人も安心して職人の世界に飛び込むことができたのである。
考えてみれば、ちょっと前まで、日本では
大きな会社でも中小企業でも、これとは少し違う形かも知れないが
いずれにせよ、職業人を「大切に育てて来た」のではなかったか?、、、
しかし、最近の日本の社会は、職人を育てるどころか
全くの「労働者使い捨て」の時代に突入してしまったようですね。
これでは世の中、ダメになりますな。
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