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籃契会というのは、盛岡中学校、盛岡一高のバスケットボール部のOBで組織されている会です。

往年の籃契会には県内外で大活躍した選手がぞろぞろいました。
東北圏では常に優勝を争っていましたし、全国でも決して侮られないチームで健闘したものでした。

 数年前、岩手県バスケットボール協会50周年の記念式典がありました。たしか3月13日だったと思います。
 そ〜んな日に行けないよ...。と(税理士業には超繁忙期ですから)案内状を捨てようとしたら、なんと 貴殿を表彰する。 と書いてあるのです。
 驚いて急遽出席の回答を出して、参加しました。
 その控え室で、私の左側に川村文法さんが来られて、やぁやぁ と言っていたら 右側に関口さんがよぅっと座られ、私をへだてて川村文法さんに丁重な手つきで名刺を  手渡されたのです。
 川村文法さんも、恐縮の体で名刺を差し出して.....。
 一瞬の後、 なぁんでぇ せきぐっつぁ〜ん.な、なんでぇ.。ぶ〜んぽさ〜ん
 人悪くしてそこまで、だまって見ていた私を含めて大笑いがしばらく止まりませんでした。

このお二人も、往年の東北地方で、この世界に知らぬもののない名選手だったのてす。

私などは、呆然として見守るだけの華麗なプレイを展開されていましたっけ。


平成18年3月7日に
  内藤敏男氏が亡くなられました。
氏は、LB会のメンバーで昭和8年生まれです。
私も一緒に、昭和26年、名古屋の第1回高校総体、広島県福山市での国体に参加して
全国大会で前後3試合勝利をおさめました。
氏の得意技は、ワンドリブルで左側をくぐり抜け、一旦左手で小脇に抱えたボールを
ジャンプした後から右手に持ち替えてボードにぶっつける ねんずり シュートでした。
 一試合に2,3度これで得点を重ねていました。
この HP のLB会の中に 蓋棺録 などで 氏の想い出を綴る予定ですので、そちらもご覧下さい。
  謹んでご冥福をお祈りします。


平成14年5月1日
  立花英世氏が逝去されました。

氏は昭和25年3月盛岡一高を卒業され、その後岩手大学でもプレーされましたが、なんといっても、昭和24年(高校3年)の東京国体とその前後の大活躍は、
文字通り全国関係者の注目の的でした。
 センタープレーヤーとしての、華麗なフックシュートは、国体終了後の全日本の東北予選の試合で、『ディフェンスのしようがない』と相手監督を嘆かせたものでした。
 じつは、この試合は私は見ていないのですが、東京国体の時は、最後の試合が終了してから、全日本高校ベスト5の候補ということで、係りの人がメジャーテープなどを  持って明治大学の控え室に、体格検査に来ていたのを覚えています。

この方の娘さんが中学時代、うちの娘のチームのキャプテンだったので、時々体育館でお会いすることもありました。
2,3年前そのお嬢さん一家と、町の食堂でお会いしたのが、最後でした。

  謹んでご冥福をお祈りいたします。


平成11年11月2日、

昭和24年の東京国体を始め、一高卒業後も籃契会で活躍され、国体などの全国大会出場は数知れず、県内のバスケットボール関係者で知らぬ者のない名選手だった
       大類敏郎氏
             逝去されました。


晩年は、過去の経歴を活かして社会保険労務士としてお仕事をしておられました。

ご夫人の健康がすぐれず、手を取るようにして病院えお連れしておられましたが、ご自分が先立たれるとは...。

   謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


現在のバスケットボールのユニホームはなんともカッコ悪いと思いませんか?

あのステテコのようなズボンが、カッコいいと思う人がいるでしょうか。
女の子まで同じステテコスタイルとは、どうしたことでしょう。

バレーボールの人気に対して、今ひとつ不人気なのも当然です。

終戦直後ハワイから二世チームが来日した時、その後ハーレムグローブトロッターズが華麗なプレーを披露した時
我々はそのプレーとともに、派手な色彩のユニホームにも憧れたものです。
今のステテコスタイルとは似ても似つかぬものでした。

確かにアメリカのプロはステテコですが、なにもそれまで真似しなくても...。