二風谷ダム訴訟にみられた先住民権をめぐって
久慈高等学校山形校教諭 鈴木 俊
1、いつも思っていた疑問とアイヌへの関心
(1)大船渡がアイヌだって?
僕は県南の大船渡市の出身である。おかなしな話だが、物心ついてしばらく大船渡は宮城県だと思っていた。まわりの大人の話が仙台の話ばかりだったし、昔話でも仙台の殿様が登場するからだ。ところが小学校に入学して大船渡が実は岩手県であることを知り、私の幼い帰属意識は少なからず大いに混乱した。
岩手と宮城の混乱くらいならまだ良い。祖母の昔話やそれに肯く大人たちはこうだ。「昔は、大船渡はアイヌだったんだぞ」いくらなんでも小学生ともなれば自分の国の名前くらいは知っている。私は私や私のまわりの大人たちを単純に日本人だと思っていたが、どうもそれほど単純ではないらしい。これで私は更に混乱した。
(2)正史はなぜ郷土の謎に答えないのか?
日本は、学校で習ったり世間で言われているような日本ではないのではないか?
幼少時以来のこの疑問はいまだに晴れていない。
たとえばアイヌ語地名である。宮城県北から青森にかけてアイヌ語地名が散在していることは知られているが、その起源を説明している検定教科書はなかった。方言は簡単に疎んじられるばかりで、方言の中に散見されるアイヌ語単語について教師は何も教えてくれなかった。
近所の大人がおもしろおかしく語るのは、唐桑の古代文字とか五葉山頂の石組み遺跡の話である。近くの神社に至ってはイナウを御神宝にしているしまつで、検定教科書や受験勉強に取り組んでも自分自身に関わる地域や歴史についてほとんど役にたたないと言うのが実感だった。
そういう疑問を抱きながら北海道の大学に進んだが、そこでウタリ協会の方々と縁ができたのがよかった。単一民族国家観と言う嘘ににもとづいた日本観日本人観があっけなく私の頭の中で壊れてしまった。これで民族の枠組みに凝り固まったものの考え方にはすっかり背を向けるようになった。
日本国家の国民と言うところで同一性を保とうとしたが、世界的なエスニーの台頭とソ連邦の崩壊があって近代国家と言うものもフィクションであり人々がその気になるとあっけなく崩壊してしまうことも知った。(緩やかだが日本国も同じ過程にある。)
日本民族や日本国家への帰属意識が急速に弱くなり、私は自分を支える足場をもたない思想的ボヘミアンになった。関西商工会議所の会頭だった佐治啓三氏の暴言は、日本を代表する財界人の発言だっただけに、その無知と偏見の程度の低さにはほとほとあきれてしまった。しかもそれを報道する大手マスコミの論調も馬鹿馬鹿しさは、それを受け入れている日本の大衆がどういう人々なのかを教えてくれた。
そんなことが二十代の半ばまでに私の周りでおこったので、私は「日本」とか「日本人」をキーワードに物事を考えることには首をひねる者である。その多くがホラかフィクションではないのかと言う猜疑心で頭がいっぱいなのである。そう考えている者は決して少なくなく、心ある者、勉強した者の一部は常識的な日本観・日本人観を拒否している。単一民族観を破壊し、健全な市民なら誰でも安心して暮らせる社会を気づくべきだと考えている者は多い。またそうなると思って長年活動している人も多い。
今から紹介する二風谷ダム訴訟の原告萱野茂・貝沢正の両氏はそういう人々の代表だろう。
2、二風谷ダム訴訟とは?
(1)二風谷ダム訴訟とは
二風谷ダム訴訟とは、「第二次全国総合開発計画にもとづく苫小牧東部開発計画の一部としてすすめられた二風谷ダムの建設はアイヌの聖地を破壊しアイヌ文化を破壊するものだ」として、土地の強制収用を裁決した収用委員会に裁決取り消しを求めておこされた行政訴訟である。
この裁判は三つのて点で注目すべきものだった
- ダムの有益性への疑いを明らかに出来るか
- 一度動き出した行政サイドの事業を止めることが出来るか
- 我が国で先住民権が認められるか
1.2.については徳島県木頭村がダム建設禁止条例をつくり、中央政府と対立しており、これを例に恒常化してしまったケインズ政策の是非をめぐる議論の中で取り上げたほうがいいだろう。アイヌ民族の文化破壊としてのダム建設は、ケインズ型福祉政策の運用面での弊害のひとつと見るべきであって、我が国の民族問題であると同時に財政問題と政治家・官僚の資質の問題に絡めて理解しておくのが正しい。しかし、紙面の都合があるので、ここでは3.の問題のみ取り上げることとする。
(2)二風谷コタンはアイヌの聖地
ダム建設の是非が争われた二風谷コタンは、北海道平取町の沙流川中流にある。沙流川にそって国道237号線が走り、その両脇に数件の土産物屋と牧場や畑が並んでいる。ここで農業を営む作家の萱野茂氏は私財をなげうってアイヌの生活用具をコレクションし、私設のアイヌ文化博物館を経営しておられるので訪れたことのあるかたも多いかもしれない。また岩手の人にとってなじみやすいことにここは義経北行伝説の終着地でもある。平泉で死ななかった源義経は蝦夷地にわたり、最終的に平取でなくなったことになっている。
ユーカラでは、この沙流川流域はオキクルミのカムイが降臨しアイヌに文明をもたらした場所と言うことになっている。そのため沙流川にはチノミシリ(心の拠り所として汚してはならない場所)が三個所あり、アイヌにとてたいへん神聖な場所でもある。
現在、萱野氏らが中心となって、この沙流川湖畔でチプサンケ(舟おろし祭り)が行われており、アイヌの若者に伝統儀礼やアイヌ語を学ぶ重要な機会になっている。一般にアイヌは狩猟の民と言うことになっているが、実際は近世までに沿海州から北東北にかけて後半に交易活動をおこなう通商の民であったことが知られている。1669年のシャクシャインの乱が松前藩との北方交易産品の価格決定権をめぐる争いであった点はアイヌの伝統的な在り方を考える上で重要である。
(3)二風谷ダム建設の経緯
二風谷ダムは、1969年、第二次全国総合開発計画、苫小牧東部開発計画で立案され、1971年、沙流川総合開発事業計画予備調査が行われた。
以下は「風谷ダム裁判とつなぐ会」がまとめたダム開発計画から判決までの推移である。
1969年、第二次全国総合開発計画、苫小牧東部開発計画
1971年、沙流川総合開発事業計画予備調査。
1981年、工業用水供給の見積もりを縮小。洪水防止など多目的ダムに計画変更
1982年、工事着手。環境影響評価報告書発表
1986年、建設大臣の事業認定、ダムの本体工事開始、
1987年、開発局、貝沢正・萱野茂両氏の土地の強制収用を申請。
1989年、収用委員会が強制収用を認める裁決。
1992年、貝沢正・萱野茂両氏、建設省に裁決取り消しを求め不服審査請求。貝沢正氏死去。
1993年、建設省、不服審査請求を退ける。
萱野茂・貝沢耕一両氏、収用委員会を相手取り行政訴訟
1995年、建設省ダム建設審議委員会設置。開発局に沙流川総合開発事業を対象とする審議委員会設置
。北海道開発審議委員会(開発庁長官の諮問機関)苫東新計画了承。5656haを3300haに縮小。工業用水の需要も減る。
1996年2月、審議委員会、平取町で公聴会開催。萱野・貝沢両氏は不参加。3月、審議委員会、貯水を認める中間答申案発表。4月、貯水開始
1997年3月27日、札幌地裁判決。原告勝訴。
収用裁決は違法。アイヌの先住民権を認める。裁決取り消しは不可能 おもしろいのは、1978年11月24日の北海道新聞ですでに苫小牧東部開発計画の頓挫が指摘されていることである。苫東開発計画が挫折すると当然二風谷ダムはいらないと言う結論が出るはずだが、1981年には苫東への電力供給以外にも観光・洪水防止などの目的をもった多目的ダムと位置づけられる。一度思いついたものはとにかく作ってしまえと言う発想に他ならず典型的な箱もの政治の産物であったことは当時から人々に明らかだった。
平取町は、沙流川の水量や運搬される土砂の量からして計画されたダムの寿命が短すぎること、河床低下・水質水温の変化が著しく自然破壊ではないかと考え、またダム建設の是非をめぐる世論の二分から町が分裂してしまうことをおそれた。そのため当初平取町自身がダム建設に反対であった。さらに沙流川の河口に位置する門別町漁協がダム建設による環境の変化から水揚げ量に影響が及ぶことをおそれ建設に反対の意志をしめした。1982年に工事の影響を調査した環境影響評価報告書が発表されたが、これに対して日本科学者会議北海道支部からやり直し請求が出されるなど、国のやることなすことが不評であった。
行政サイドは地元二風谷コタン・平取町・周辺自治体・北海道などに事前の了解をほとんど得ないまま、中央政府は工事を強行していたと言ってよいだろう。
3、二風谷ダム建設に見られた行政サイドの態度
(1)アイヌ文化への無知と文化財の破壊
中央政府が地元の意向を汲んでいない、あるいは汲む気がなかったらしいことは書いたが、それにしても担当した官僚や技師たちはあまりにも北海道やアイヌの歴史・文化について無知だった。
「アイヌの方々が多いからと言うだけで聖地聖地と言うのはおかしいのでは」
と1996年4月12日北海道新聞紙上で発言したのは、当時の北海道開発局長北条紘次氏だった。また工事の過程で歴史遺産として重要なユオイチャシとポロモイチャシを破壊した。裁判において被告側証言から強制収容の採決前に何度も対話の機会があったにも関わらずチノミシリの存在を知らなかったことも明らかになった。
これらの諸例のようなことは実は二風谷ダム建設にだけみられるものではなく、我が国の建設工事にひろく見受けられることである。たとえば岩手県内においても盛岡市厨川の宅地造成工事などは、厨川の柵かもしれない丘陵を何の配慮もなく工事してしまったもので、岩手県民の歴史・文化への関心、人文的素養の程度を見て取ることができる。他にも衣川の河川改修工事や東北自動車道建設時の名取古墳群の破壊など、文化的自殺とも思える工事は枚挙暇がない。
二風谷ダム工事の際の文化的破壊も意図的にアイヌをターゲットにした民族差別や文化的ジェノサイドと言うよりも、単に日本人の人文的素養の低さに由来する愚行と見るべきではないだろうか?そして私は二風谷ダム訴訟の場合、この人文的素養の低さの原因は日本人の単一民族観と言う誤りに求めている。誰もが自分と同じであると言う暗黙の了解が精神の一元化をおこし、自分の視野にないものへの不躾と無配慮を放置しているのである。
(2)ダムの建設目的がはっきりしない
ところで、二風谷ダムは何のために建設されたのだろうか?
二風谷ダムの建設の目的は沙流川総合河川事業計画第4版1971によれば、苫小牧東部工業団地への工業用水の供給であった。しかし、苫小牧東部開発は計画のはじめからとん挫し、造成は進むもののそこに進出する企業は多くなかった。二風谷ダムが完成したとして工業用水の供給は早い段階から過剰になると予想されていた。
これに対して国は二風谷ダムの規模を縮小し、多目的ダムとして建設を続行する腹づもりであった。1986年の事業認定書ではダム建設の目的を以下のようにあげつらっている。
- 洪水調節
- 正常な流れの維持
- 灌漑用水
- 水道用水
- 工業用水
- 発電
事業認定書に書かれた建設目的は住民側の理解を得られるものではなかった。さらに工業用水供給は苫東縮小で意義消失していること、洪水防止策は沙流川の水量土砂運搬量からしてすでに十分であること
灌漑用水も既存の水道水も現状で十分であることなどが指摘され、いよいよダム建設の真意が不明瞭になっていった。
(3)疑い
これでは、ダム建設は合理的な目的にかなったものなのか、疑いが生じるのは当然である。日本の官僚制(と言うよりは日本人たち)には実行中の行為を正当化するために目的を変更すると言う性質がある。世の中は動いているのだから当初の意図と状況が違ってしまい、表面的な目的を変更しなければならないことは確かにあるだろう。しかし、事業を一貫してつらぬく大目的は変更してはならない。目的の変更はそれに従事している者たちのモチベーションを落とし、労働疎外を著しくするからである。これを変更すると人は何のために活動しているのかわからなくなり、事業の意義が失われるのである。
ところが日本人たちはこの手のことを平気でやる。実際に事業が動いてしまえば、多くの人々の業務や雇用に結びついているので、中止は従事しているものたちにたいへん損な話である。また中止になるような事業に従事させられていたと言うことでプライドも傷つくだろう。だから事業が必要なくなったと明らかになったあとでも、関係者の雇用やプライドを守るために新たな理由探しが行われ事業を継続しようとする。これは事業に関わった仲間内での一種の福祉であり、合理性よりその場の融和を尊重する倭人の性質そのままである。
そんなわけで二風谷ダムについても、変更されたダム建設の目的自体に合理性はなく、とにかく作ることが優先され、官僚はじめ関係者のメンツを保つために建設が続けられたと疑われても仕方がないだろう。
4、二風谷ダム訴訟判決の根拠となった先住民権とは?
(1)二風谷ダム訴訟裁判の流れ
- 93年7/8裁判開始。アイヌの先住性と独自文化について被告の見解を求めた。
- 10/28第二回口頭弁論。被告、アイヌの先住性と沙流川流域がアイヌ文化を育てた地域であることを否認できず。
- 94年10/13、第八回口頭弁論。国際人権規約B規約27条の少数民族としてアイヌの存在を認める。二風谷地区のアイヌが固有の文化を守っていることを認める。先住性については認否を拒否
- 96年4/2、裁判係争中のまま貯水強行。係争地は水没。
- 96年8/20夏。二風谷ダムの水がぬかれ、チプサンケが行われる。
- 12/19結審
- 97年3/27、判決。原告側勝訴
以上は、二風谷ダム訴訟の原告側支援組織「二風谷ダム裁判とつなぐ会」がまとめた裁判の経過であるが、国側が一方的にやれらっぱなしであったことがわかる。裁判の間に、国内では安易な公共事業政策への批判が強まっていた。また、国際的には「国連・先住民の10年」が設定され、時代の流れとして国側に有利な材料はなかった。これに民族問題への無知や遠慮が相まって国は裁判全般を通して防戦一方であった。
(2)判決骨子
- 収用裁決は違法。アイヌ文化への配慮に欠けた安易な事業認定は裁量権の逸脱。
- アイヌの先住民権を全面的に認め、ダムの公益性以上の文化的損失があった。
- ダムは完成しており、裁決取り消しは不可能。
判決は以上の内容であった。先住民権を全面的にみとめつつ、建設されてしまったダムについては玉虫色の判断を下した。しかし、原告側の訴えの主目的は先住民権を司法レベルで確立することだったので、一方的な勝訴と言ってよいだろう。
(3)先住民権についての考え
ところで、二風谷ダム訴訟で争われた先住民権とはどのようなものであったろうか。これについてウタリ問題懇話会は「アイヌ問題に関する新法問題について」についてのコメントのなかでこう述べている。
「先住民族の居住するないし居住していた土地及びそこにある資源に対する権利、伝統文化を維持し発展させる権利、さらに一部には政治的自決権を包含する内容の権利として、諸外国ならびに国際的な場でも主張され議論されている。
」
これに対し国側と北海道は先住民権を明文化したくない理由として1989年12月10日の北海道新聞の中で、「先住民権は領土権や自決権の概念につながり、アイヌの独立まで視野にはいる
」「先住民権は未だ固まった概念ではない
」の二点をあげている。
しかし、札幌学院大学の松本祥志は以下のように反論し、先住民権確立を擁護している。
「先住権を盾に分離独立を志している例はなく、国・道の思い過ごしである。」
「先住民権を認められた先住民族は国家と同じ国際法主体であり、その国における先住民権の具体的な内容は二者の協議によって決めるものである
」
このような論争を背景に、札幌地方裁判所は先住民権について判決の中でこのようにコメントした。判決が確定しているので、先住民権の取り扱いについては今後これが判例となる。
「アイヌ民族は、我が国の統治が及ぶ前から主として北海道に居住し、独自の文化を形成しており、これが我が国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお民族としての独自性を保っていると言うことができるから、先住民に該当する」
「先住少数民族の文化享有権に多大な影響を及ぼす事業の遂行に当たり、起業者たる国としては、過去においてアイヌ民族独自の文化を衰退させてきた歴史的経緯に対する反省の意を込めて最大限の配慮をなさなければならない」
結局、新たな裁判で判決が覆されない限り、日本国はアイヌを「先住民権を有する先住民族」として認め、その文化享有権を最大限配慮しなければならないことになった。
ところで、先住民権について原告側の主張通りに認められて一見めでたいようだが、先住民権の確立は日本人の考え方に大幅な変更をせまるものであることが見落とされているようである。
札幌学院大学の松本祥志によれば、先住民権はたんに国内においてその文化的保護の対象となることでない。先住民権は国際法上の権利であり、先住民権を認められたアイヌは国際法主体として扱われねばならないと言う。国際法の主体とは、国際的な権利・義務を有することが出来、国際的請求を提起することによってその権利を擁護する能力を有するもの(国際司法裁判所勧告1949)
のことである。そしてアイヌは先住権に関する限り国際法主体とみなされ、国と対等なパートナーシップをむすび、国から一方的な法律を課せられる関係でなくなると言う。この場合の先住権の具体的な内容は、アイヌと国の二者間協議で決定されることになる。
つまりアイヌは文化行政や経済な地位向上に関する政策などで国の一方的な支配をうけず、国と対等な立場で交渉しうる法主体として存在することになったのである。アイヌの要求の程度にもよるが、これによって日本国は変則的な一国複数制度に移行せざるをえなくなり、国家主権の万能に異が唱えられた。これは近代以来の国民国家の在り方に一石を投じた点でたいへん重要である。
5、我が国における先住民権確立の意義
二風谷ダム訴訟判決の意義は重要である。これを以下のように考察した。
- 日本国内に先住民と言う法主体(国際法主体)を設定し、日本国と対等化することで、日本国の絶対性が否定され相対化された。
- 日本国によって保護されてこなかった人々の歴史の復権と文化の保護育成が必然であることが明らかになった。
- 近代日本の暴力性を反省し、文化的な共生を志す新しい日本のあり方を示した。
- ある人々にとっては、従来無批判に良いと思われている様々な社会制度が全体主義的な抑圧であり、進歩と見なされてきたいくつかの政策が文化的ジェノサイドであったことが明らかにされた。
- 一民族国家観が司法レベルで公式に否定された。
- 住民権の認知によって我が国でも近代以降の流れを覆そうとする意志のあることが宣言された。
このような観点から日本国には以下のような改革が必要であると思われる。
- 「先住民族の権利宣言」の早期決議(少数民族懇談会 大脇徳芳)
司法レベルで確定したとはいえ、圧倒的大多数の和人は依然として民族問題について無知であり、政府の中にも国際圧力で先住民権の確立を必然と考えつつも、単一民族国家と言うあるはずもない夢にとらわれているものは多い。そのためウタリ協会内部には和人の改心を信じず、依然として差別的な諸制度や態度が改められないだろうと考えているアイヌも多い。このような状況を打破するきっかけとして国連の「先住民の権利宣言」を早急に決議し、国が宣言を行う必要がある。
- 「先住民権国内委員会」の設置(札幌学院大 松本祥志)
国際法主体であるアイヌ民族は先住民権に関する限り日本国と対等なパートナーとみなされる。先住民としてのアイヌの具体的な権利・義務は国とアイヌの交渉・協議によって確定されることになる。国際連合の勧告に従い、日本国は先住民権についての活動計画を作成する国内委員会の設置をしなければならない。
- アイヌ文化振興法の発展拡充
平成9年5月成立したアイヌ文化振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(通称アイヌ文化振興法)は日本国の他民族性・文化的多元主義を宣言し、その保護発展の手だての必要をうたった点で重要である。しかし、その名称どおり文化的な振興啓発に重点が置かれており、漁業権や土地所有の問題、さらには教育や言語使用の問題などアイヌの日常を改善する内容にはほど遠い。立法レベルでの先住民権はまだ立ち上がったばかりであり、今後の拡充がのぞまれる。
- 日本語以外の言語(アイヌ語など)による教育の制度化
文化の中心は言語である。しかし圧倒的大多数の和人の日常に飲み込まれて、わずかな機会を除けばアイヌ語が使われることはない。アイヌ振興法の第一条にあるように我が国の文化の多様化を志すのであれば、学校教育にアイヌ語を早い段階から導入し、アイヌ語人口の拡大と日本社会の他言語化をはかるのは当然と思われる。
- 日本語以外の言語(アイヌ語など)による行政の実施
また行政においても、アイヌ語の公用語化は必然であろう。議会。裁判でのアイヌ語による発言を認め、これをそのまま記録しなければならない。また行政文書や窓口業務の多言語化をすすめ、アイヌが大勢いる地域ではアイヌ語での行政手続きを可能とするよう、法律・規則を改めなければならない。
- 自治権についての解釈拡大
自治権についても、大幅な解釈の変更が必要である。憲法では法律の範囲内での自治認められているが、先住民権の確定により、先住民権に関する限り協定で認められた範囲でのアイヌ民族の自治は国内法に優先するか、国内法の改正をせまるものになる。中央政府優位の地方自治観は改められねばならない。
6、生徒にとっての意義は?
生徒にとって先住民権はどのような意義をもっているだろうか?
岩手県民はほとんど全部が和人であるが、エミシの地にすむ。またエミシの後の俘囚文化を大いに誇りとしている。先住民権の学習を通して我が国の多元化を受け入れやすい立場にある。
人権思想は近代ヨーロッパ思想の矛盾と欺瞞の上に成立しており、しばしば現実の悲惨を解決できなかたり、それどころか悲惨の原因だったりするが、現代の諸問題の多くは人権思想に基づいた配慮すら徹底していないことに原因を有している。
我が国では和人の圧倒的多数支配は仕方がないことである。しかしそのことで少数者、それも伝統的に和人以上に正統性を持った少数者が市民生活に不利益や苦痛を感じるようではならない。少なくとも自由と平等は市民社会の原理であり、民族や国籍で差別されて人々に適応されるべきものではない。
先住民権についての学習は、生徒にとってまず人権を考える教材として現代社会・政治経済などで取り上げられるだろう。またアイヌの民族問題がなぜ発生するかについて歴史的な経緯から学ぶのであれば日本史・世界史で取り上げることもできる。またダム建設の不合理と言う点に着目すれば、公共事業と税金の使い道についての教材として取り上げることになる。また先住民権確立後の国とアイヌの協定を追跡すれば自治を考える教材として非常に有効と思われる。
しかし、最も重要なのは、人類の経済活動の進展によりボーダーレス化している社会の必然として多元化・多文化化する日常を肯定し、異文化を享有する人々と共存しなければならない我々の未来を考える教材として最適であると言うことである。
21世紀は、複数の帰属集団を持ち、階層化・多重化したアイデンティティをもつ人々が増えると予想される。19世紀的な国民国家や民族主義に固執し、生徒の未来を閉ざされたものには出来ない。アイヌ民族の存在により日本の他民族性は明らかである。これを認め、学習することで、より多元化した社会・共生的な社会を考える機会を生徒に提供出来ると思う。
参考文献
- 「アイヌ民族に関する法律(案)」(社)北海道ウタリ協会総会 昭和59年5月27日
- 「アイヌ民族に関する新法問題について」ウタリ問題懇話会 昭和63年3月
- 「報告書」ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会 平成8年4月
- 「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告についての談話」参議院議員萱野茂
- 「つなぐ」二風谷ダム裁判とつなぐ会定期発行ニュース
http://www2.comconet.or.jp/~chikara
- 「二風谷ダム訴訟原告側最終意見陳述」札幌地裁 平成8年12月19日
http://www01.u-page.so-net.ne.jp/da2/tomu/ainu/kayano.htm
- 「二風谷ダム訴訟札幌地裁判決」平成9年3月27日
- 「アイヌ民族の現状と課題」少数民族懇談会 大脇徳芳
http://www.infosonow.ne.jp/siis/study/study22.html
- 「アイヌ新法制定をめぐって」小野寺和彦
http://www.mitene.or.jp/~sksknet/ainu.html
- 「アイヌ文化教育にむけて」あやしい教育(アイヌ文化教育を推進する北海道の教職員グループ)
http://city.hokkai.or.jp/~ayaedu/manabi/010000.html
- 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」
- 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律に対する付帯決議」
- 「アイヌ文化振興法と先住民権」札幌学院大学 松本祥志
http://www.infosnow.ne.jp/siis/toukou/ainu_24.html
- 「先住民権国内委員会に向けて」札幌学院大学 松本祥志
http:www.infosnow.ne.jp/siis/headline/head_25.html
追記 このレポートを書いた後、「単一民族神話の起源」と言う本の存在を知った。
私は長らく単一民族国家観は大日本帝国の体制下で育まれたものであると理解していた。
ところが、この本の著者小熊英二は豊富な資料から、大日本帝国では天皇を中心にした一元化が行われた一方、
帝国支配下の諸民族の立場を包括する他民族化・多元化の動きも活発であったことを実証している。
小熊によれば単一民族神話は戦前からその流れはあったものの、定着したのはむしろ戦後の事だそうである。
だとすれば我々の日本観・日本人観は私が思っていた以上に修正を必要とするものなのかもしれない。