川端康成の「名人」という小説を読 んだ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101001197/250-0345303-9427422
NHKの囲碁教室を 見ていたら、
大竹英雄九段が
この小説を紹介していたので読みました。
最後の宗家本因坊、
田村秀哉(しゅうさい)名人 は年令と共に引退を宣言した。
(本因坊位は、その後、実力制となった)
今では考えることもできないが、
「引退試合」なるものが日々新聞社によって企画され、
一大イベントとなった(日々新聞社は現毎日新聞社)。
日華事変のただなか、
日本が破滅へ向かって突き進んでいる昭和13年6月26日、
荘重な打ち始め式とともに対局が開始された。
対戦相手は、予選リーグから勝ち上がってきた木谷実七段。
誰も予期しなかったが、この勝負は、半年にも及ぶ壮絶な戦いとなった。
川端康成は観戦記者となり、記事を書く。
それを後年小説に仕立てたものが、この「名人」である。
完全なドキュメンタリーなのだが、何故か川端康成本人は浦上記者、
木谷実(きたにみのる)は大竹七段と、この二人だけに変名を使っている。
大竹英雄九段は、
「どうして僕の名前を使ったんですか?と聞こうと思っていた矢先に
川端先生は自殺されてしまった。」と、テレビで言っていた。
しかし、大竹七段という名が、はたして
大竹英雄氏の名前から取ったかのどうかは、今となってはわからない。
囲碁を多少とも御存知の方なら先刻御承知でしょうが
大竹英雄九段は幼少の頃より木谷実の内弟子であったから
川端康成と大竹英雄少年は面識があったのです。
だから、あるいは本当に大竹英雄氏の
大竹から取ったのかもしれません。
川端康成は囲碁の高段者で、
木谷実、秀哉本因坊を始め囲碁界の多くの実力者と親交があった。
この大イベントに観戦記者として招聘されたのは至極尤もな事であり
当時の新聞社は、まことに粋な企画をしたものです。
なんと、持ち時間40時間。今の名人戦では8時間である。
世界的にはもっと短時間の対局が主流である。
持ち時間40時間の対局など、当時でも珍しかったし
今後このような対局が企画される事は、まず絶対にありえないであろう。
秀哉本因坊は心臓病の為、対局はたびたび中断となる。
神経質な木谷はカリカリとするが、病人に対して激しく抗議もできず、
さらに、病人を相手に、 まさか負けるわけにもいかない。
手をゆるめて負けた、なんて言われたら、もはやプロとして失格である。
対局者の木谷にしても誠に難儀な運命を背負う事になったのである。
また、台風のために洪水が起こって延期になったりもする。
そのようにして半年もかかってしまったのである。
対局中は、棋士は四六時中、盤面を考えている。
夢の中で次の手を思いつくこともあるらしい。
そんな状況が半年も続くとは、まさしく消耗戦としか言いようがない。
、、、
この対局は、名局として日本棋院に棋譜が記録されている。
結果は、黒番木谷実七段の五目の勝利に終わった。
「こみ」と呼ばれる、黒番のハンディ無しの結果なので
囲碁の内容としては、全く互角の戦いだったと言える。
この対局が体に災いしたのか、精魂を使い果たしたのか
秀哉本因坊名人は一年後に亡くなってしまう。
それにしても壮絶な戦いであった。
ふけば飛ぶような将棋の駒に、、、なんていう歌もあるが、
将棋指しも碁打ちも、なんともすさまじい人生ですな。
私は以前、川端康成の悪口を書いたような気もするけど(^_^;)
この「名人」に関しては掛け値なしで面白いです!!
ただ、この「名人」という小説は
囲碁を少し知らないと、面白くないかも、、、
実は私もよくわからないので、
「この手が、すばらしい手であった」とか、「これが敗着であった」とか
書いてあるけど、そのあたりはゼンゼン理解できません。
でも、勝負に賭ける両対局者の執念には本当に感激しました。
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