東山和紙(とうざんわし)の起源については、一般的な定説として平安時代末期に鎌倉勢に滅ぼされ奥州平泉の藤原勢の落人が、当地東山町一帯に土着し、農耕の傍ら生活用品として作り始められたといわれ、約八百年余りの伝統が今も受け継がれています。

 東山の名の由末については、東北文化の黄金時代を築いた平泉中尊寺の近くの束稲山(たばしねやま)より東方を眺めた風景が、京都の東山に似ていることから古来よりこの地方は、「東山」と称され、これがそのまま紙名になったといわれています。

 東稲山の麓には、紙生里(かみあがり)という部落もあり、文字通り紙の生まれた里にふさわしい地名から、東山和紙発祥の地と考えられています。

 文献によって知ることができるのは江戸時代からで、天保二年(1654年)には二名の漉く人が記録され、その後伊達藩の奨励により盛んになり、正徳五年(1715年)には、百六十三人の漉き人があったとされています。最も盛んな時期であった幕末から明治時代にかけては町内の長坂、田河津の各部落はほとんど軒並みといってもよいほど紙を漉いていたといわれています。

 最近では、昭和十七年において二百八十五人を数え、主に冬期間の副業として漉かれ、県内を始め東北各地に広範な販路を持っていました。

 現在は、山谷部落を中心にわずか四名であるが、東山和紙の八百年余の伝統を守り、独特な技法を忠実に受け継ぎ、楮紙を中心とした素朴で強靭な和紙を漉き続けています。