量子力学の誕生で有名な、「プランクの分布式」というものがあります。
(プランクの放射公式とか、プランクの内挿式とか、名前は色々あるようで、、、)
モロモロの面倒なムズカシイ事柄は、きれいさっぱりあきらめ、
超シンプルに、y と x だけにした式にしてしまうと
レイリージーンズの式。(なんと、単なる放物線だ)
ウィーンの式。
プランクの式。
となる。
eは 2.71828
です。
これを、フリーのグラフソフト「grapes」で描いて見ましょう。( x
< 0 の所は無視して下さい)
プランクの式は、
xが小さい時はレイリージーンズの式と同等となり、
xが大きい時はウィーンの式と同等となる。
ということが、このグラフと見れば、よーく分るでしょう。
「だから、それがどうしたってんだよ」
ちょ、、ちょっと、待って下さいね。今から説明しますから。
当時(19世紀の最後)、物理学者達は、
製鉄所の灼熱した鉄の色と、その温度の関係から、
物理学に裏打ちされた理論式を作る事に、
よってたかって格闘していたのだった。
レイリー先生とジーンズ先生が作った式(放物線)は、
xが小さい時は、実験によく合致していた。
しかし、xが大きくなると、実験とかけはなれてしまうのだった。
実は、xは光の周波数で、yは光の強さです。
つまり、物理学者たちは、温度の色(ある温度におけるスペクトル)を
表現する理論式を作ろうと努力していたわけです。
(人が物を見る時、同時に2種類の色を見ているのです。
「本来の物の色」と、「温度の色」の二つなのだ。
温度の色は、物体とは関係なく、物体の持つ「熱」から出てくるのです。
それで、「温度の色」のほうは「黒体放射」(黒い物から出てくる色)とか
「空洞放射」(何も無い空間から出てくる温度の色)等と呼ばれている。)
色で温度を測ろうなんて、神をも恐れぬ大それたチャレンジではないか!
物理学者って、なんとロマンティストなのだろう!
( 高田清二 著 「プランク」 より )
製鉄所の職人は、灼熱した鉄の色で温度を判断できる。
私達、焼き物屋も、窯の中を覗いて、火色で温度を判断します。
製鉄所の鉄や陶芸の窯のように高温だと、職人が一目見て温度を判断できます。
高温になると、「本来の物の色」より「温度の色」のほうが、はるかに強くなってしまうのだ。
で、普通の温度では、逆に「温度の色」は可視光範囲では、とても弱いので
まさか、何か物を見て、この温度が何℃だ、なんて言う事は不可能ですよね。
しかし今では、常温でも、目に見える範囲を超えて
機械で赤外領域まで見(?)れば、温度がわかるのです。
対象物に触らないでも、小さな望遠鏡みたいな装置で、温度が測れるのだ。
サーモグラフィーなんて物もありますね。
対象物の温度をグラフィックに画像表現できる。(すごい!)
最近は手持ちで測定できる超小型な非接触デジタル温度計なんかも売っている。
テレビを見ていたら、チョコレート職人が使っていたのでビックリした。 注
(温度を測るのではなく、逆に真っ暗な環境で物を見る「赤外線カメラ」 ってものも
わりと昔からありますね。これも温度の色、黒体放射で物の形を見ているわけです。)
、、、
で、
ウィーン先生の式は、
xが大きい時は実験値とほとんど合致しているので、皆が感心したのだが
残念ながら、xが小さくなると、実験と、大きく、ずれてしまうのだった。
そこに、プランク先生が登場したのです。
プランク先生の式は全周波数領域で、実験と見事に合致したのでした。
ウィーンの式の分母に -1 を押し込んだだけで実験通りの理論式になる。
これは素晴らしい奇跡です!
プランク先生は、ここから更に考察を深め
ついには量子力学の夜明けの鐘を高らかに鳴らす事になったのです。
そんなわけで、プランクの式
これは歴史に残る有名な式なのであります。この怪しい分母を、よーく見て下さい。
等比数列の和の公式を思い出しませんか?
そうです。「エネルギー量子説」とは、なんと「等比数列の和」だったのだ!
マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク
(Max Karl Ernst Ludwig Planck 1858 - 1947)
プランク先生の苗字はプランクですが、名前がなんと4個もあります。驚!
先生は寫眞に示す如く細面の人で鼻は高く、額に碧筋が現われていた。眼は鋭く、話ははつきりして、講釋は音吐晴朗、語調明確、別に氣取つた風采なく、抑揚頓挫なども稀で、偏に學生の理解を希うていた。
先生は屡々轉宅されたが、終に郊外グルーネワルドの松林内に閑靜な庭園付きの家に移られてから世界第二大戰まで住まわれた。大學まで約半時間、市街鉄道で
通われた。勞働者と區別できない粗服をひよろ長い体に纏うて泰然自若であつた。これは大學教授の習慣で、丁度高等學校生徒が破帽弊靴で街路をねり歩くと同
様の心理状態に基いているから敢て批評の限りではない。かくて宅を訪問すれば質素な紳士であつた。書齋には飾の無い書棚が列をなし、卓上は清淨塵埃を留め
ず、フアウストの讀書室とは全く趣を異にしていた。先生が松風颯々たるを耳にしつつ自然の恒數 h を案出された遺跡を偲ぶも無駄ではあるまい。
先生は音樂を好まれ、特に純正調につき啓發するところありし故田中正平博士と親交あり、特に先生の考案せるピアノがあるそうだが、他人はこれを彈くことができぬと噂されていた。自分は音樂に趣味少いから、遂に窺う閑はなかつた。
また夏はバイエルンに出懸け、80歳を超えても山登りで健康を保持していた由である。昨年89歳で逝去されたが、老齡、その開拓された量子論が光輝を放つを視たのは、幸福な學者であつたことを裏書きする。
「プランク先生の憶い出」
長岡半太郎 著 より
http://www.aozora.gr.jp/cards/001153/files/43571_24368.html
( 詳しい話は「プランク レイリージーンズ ウィーン」で検索してみて下さい。)
(注)
プランク先生の生涯は、幸福だったとは言えない。
長岡先生の短文は追悼文なので、あえて触れてはいないが、
プランク先生の長男は第一次世界大戦で戦死、
二人の娘は結婚の後、産後日立ち悪く、不幸にも二人とも死亡。
次男はヒトラー暗殺計画事件に関与して死刑。
全ての子供を失ってしまった。
最後の子供を失った時のプランク先生は、驚くべき忍耐力で悲しみをこらえてはいたが
まわりの人には、見るのも気の毒なほどの心の落胆が感じられたそうです。
プランク先生には「国賊の父」のレッテルが貼られる。
後には逆に
プランク先生自身は、ヒトラーのユダヤ人虐殺に反対したにも拘わらず
第二次大戦終戦までドイツに留まったため、ナチス協力者の烙印を押されてしまう。
プランク先生老夫婦は、連合軍の爆撃によって生命の危機にさらされていたが、
友人達の尽力で、アメリカ軍によって救出され、
かろうじて安全な地に避難することが出来た。
それから亡くなるまでの数年だけは、平和に暮らすことができたそうです。
プランク先生が長く所長を務めたカイザーウィルヘルム研究所は
後に「マックスプランク研究所」と改称される事となる。
プランク先生は、ピアノの名手で、天才とも呼ばれていた。
ピアノの天才、かつ、学問の超秀才だったんだそうです。
で、若い頃、ピアノの先生に「僕はピアニストになるか、学者になるか悩んでます。」と、
告白した。
ところが、ピアノの先生は「そんなんで悩むくらいなら音楽なんてやめろ!!」
と、一喝したらしい。
それで、ピアニストになるのは、あきらめたんだそうです。
でも、
生涯音楽を愛し、気の置けない仲間と、しばしばプライベートな音楽会を開催したらしい。
アインシュタインのバイオリンと共演したこともあったそうです。
アインシュタインのバイオリンは、テレビでもたまにやるが、
あまり上手とも思えませんね(^^)
アインシュタインは、リズム感がゼロだったらしい。
楽譜は完全無視。音を勝手に伸ばしたり、短くしたり自由自在に弾くスタイル。
口の悪い友人に、「君は物理学者なのに、数もかぞえられないのかい?」
などと揶揄されたりしたとか、、、
(プランクではない。プランク先生は紳士だから、そんな事、言わない。)
、、、
およそ、プランク先生のピアノとは比べ物にはならない。
それでも、うまく合奏できたのであろうか、、、?
でも、まあいいでしょう。仲間同士の音楽会ですからね。
長岡先生の文中に、「田中先生の考案せるピアノ」とあるが、
これは、おそらくオルガンの間違い。
田中正平博士は、
1オクターブを53段階に分解する独自の音階を提唱されていて
それは純正律と平均律の両方をカバーするものであった。
そしてそれを実際に演奏できるオルガンも考案していた。
普通の鍵盤の半音を更に分割する多数の黒鍵、ペダル、レバー等があり、
恐るべき演奏困難な物だったようだ。
田中正平博士は、プランク先生とも親しかったので、
おそらく、その「オルガン」の事であろうと思われる。
プランク先生と田中正平博士は共通の師、ヘルムホルツの弟子だったので、
友人になったわけです。
プランク先生はヘルムホルツ先生の熱力学における弟子であり、
田中正平博士はヘルムホルツ先生の音響学における弟子であった。
田中正平博士の耳は、人間離れした「超絶対音感耳」だったのだそうです。
プランク先生も、敬愛するヘルムホルツ先生や友人田中正平の影響で
音響学も、ちょっと研究した事もあったらしい。(^^)
長岡先生の文中に「先生の考案せるピアノ」と、あるが、これは「オルガン」の間違い
(断定します!)。
そもそも、ピアノは、鍵盤楽器なんて呼ぶけど、実は弦楽器であって、
弦は、温度、力、経年変化等によって、簡単に音程が狂ってしまう。
だからこそ、ピアノって、年中、調律が必要なんですよね。
田中式純正調は、1ヘルツオーダーの非常に微妙な音階なので、弦楽器では無理。
よって、これはオルガンに間違いない、と、私は思う。、、、蛇足ですが、、、。
プランク先生は、この恐るべきオルガンをやすやすと弾きこなしていたという、、、
で、そのオルガンは、現在、実在するのでありましょうか、、、?
どなたか、プランク先生の遺品の「田中正平オルガン」を、御存知の方、おられますか?
(後日追記:ネットで検索してみれば
田中正平オルガンは日本でも5台製作されたそうです。写真はそのうちの一台。
この恐るべき鍵盤を見よ!!!)
浜松楽器博物館所蔵の田中正平オルガン。